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女性人権センター

Colaboでは今、「女性人権センター」建設を目指してご寄付の呼びかけをしています。
この対談では、Colabo代表の仁藤が女性人権センター建設に賛同する「1000人委員会」のメンバーと対談し、「なぜ今、女性人権センターが必要なのか」をテーマに、性差別の現状を見つめます。
第六回目のゲストは、角田由紀子(つのだゆきこ)さんです。
角田由紀子さんは、女性弁護士がわずか3%ほどしかいなかった1975年に弁護士になりました。1989年には日本で初めてのセクハラ裁判で代理人を務め、セクシャルハラスメントという概念が社会に認知されるきっかけを作ったパイオニアです。その後も長年にわたり、数多くの性暴力や女性の人権に関する裁判に関わり、差別問題と闘い続けてきました。過去には「女性の安全と健康のための支援教育センター」の共同代表も務め、Colaboには妨害が深刻化したのちに理事として就任。現在も活動を支えてくださっています。
仁藤:角田さんに役員になっていただいたのは、2022年以降にColaboの妨害が深刻になった後でした。長い間女性差別の問題に取り組んできた角田さんですが、どんな思いでColaboの理事になってくださったんですか?
角田:あなたが一番最初に出した本があったでしょう、「難民高校生」ね。あの本を私、どこかの新聞の書評で読んだの。それですぐ買って読んで、「これは面白いし、すごい人がいるんだわ」と思ってね。当時、私が共同代表をやっていた「女性の安全と健康のための支援教育センター」という長い名前の組織で、講演会に来て話をしてもらった。それが仁藤さんとのお付き合いの始めです。
その後、いろいろなところで仁藤さんが頑張っているのを見聞きして、「協力したいな」と思うようになりました。特にColaboに対する批判というか、いじめが起こり始めた時は、「何とかしなくちゃ」と思ったのね。まるで自分の娘がいじめられているみたいで。
仁藤:角田さんにお会いして役員をお願いした時は、Colaboに対するデマや誹謗中傷の妨害が最もひどいときでした。「ちゃんと闘える理事会を作らなきゃ」と思って角田さんにも入っていただいてパワーアップしたんですけど、その時に「夢乃ちゃんを置いて死ねないわよ」って言ってくださって。すごく心強く感じました。何十年も闘ってきた角田さんなんですが、まだまだこれから一緒に闘ってもらいたいです。。よろしくお願いします。
仁藤:角田さんからみたColaboの活動や、他の組織の違いというのはどんなところにありますか?
角田:Colaboというのは、すごく特異な存在だと思っているのね。若い女性たちに物を届けたり支援したりするのはあちこちであるでしょう。だけど、物を配って終わっていることが多いわけね。Colaboが一番違っているのは、確かに物を配ったりするんだけども、それ自体が目的なんじゃなくて、その人達との関係をどう作っていくかのきっかけとしているところ。そして彼女たちと一緒にどうやって生きていくかということを、探りながらやっている。そこがすごいと思ったのね。
単なる支援対象として見るのではなくて、「一緒に生きていく仲間」として捉える。そうすることによってかつて声をかけられた女性の中から、今度は声をかける側になっていく人が生まれてくる。それがすごく大事だと思っているんです。一過性じゃなくて長い関係性を作るということを目的にしてやっていて、それが実を結びつつあるなと思っています。
仁藤:ありがとうございます。Colaboが出会う少女、スタッフ、また女性たちとそういう関係性を作っているということはColaboの役員になっていただく前も感じていたことなんですか?
角田:役員になってより一層わかりました。前から少しは知っていたけれども、中に入ってどんな活動をしているかを具体的に知って、なるほどなと思った。
仁藤:外から見ていた時と中に入ってからでは、どんな違いがあありましたか?
角田:中に入ってみたら大変さを実感したわね。夢乃さんがへこたれないのが私にとっての謎だった。
仁藤:皆さんがこうやって一緒にいてくれるから、へこたれずに済みます。
角田:あのエネルギーはどこから出てくるのかなとすごく思う。
仁藤:どんなところが大変だと思いますか?
角田:誹謗中傷されたり妨害されたりすると、そういうことの対象になって大変じゃないですか。だけど全然へこたれないで押し返してやっていくところがすごいと思った。でも私もあまり、へこたれない方ではあるんですけどね。
角田:この間、ある講演会に行って性売買の話をしていたの。最後に参加者からの質問で、若い女の人に「絶望したときどうするんですか?」と聞かれたんです。私、答えに困って「私、絶望したことがないんです」なんて言ってしまったら、質問した人があっけにとられていて、何か悪いことしたなと思いました。その後で主催者の人を通じてその質問をした人につながったので連絡をして、絶望したことがないのは事実なんだけど、絶望しなくて済むようにとやって来たんだということを伝えました。
絶望に至らないようにするのが私の生き方の一つでもあったと思ったの。絶望して「どうしよう」ってならないように、これはなかなか厄介な結論が待っていると分かった時には、その時点でそれをどうやって合理的に避けて自分を守るか考えた。結構ずるいと言えばずるい生き方。
仁藤:私が自身の経験をまとめた本「難民高校生」のサブタイトルが『絶望社会を生き抜く「私たち」のリアル』なんです。私は10代の少女時代から家がない子どもたちが福祉でどう扱われ、警察でどんな酷い目に遭い、どうして男たちに買われなきゃいけないのか、そしてあらゆる形で商品化される現状を見てきたから、その時代が一番絶望していました。
だから、絶望の上でどう立つか。Colaboの活動は、そこから始まっています。私がブレないでいられるのは、敵を見続けていることや、目的を見失わないようにいつもこうやって確認し合える仲間がいるから。角田さんも含めて仲間がいいて、一人じゃないから耐えられた、ふんばってこられたと思う。
角田:そうね、敵をはっきりするってとても大事なの。闘う時に敵が曖昧だと闘いも曖昧になるんですよ。だから敵をしっかり見つめて逃さないという姿勢、これは闘う時には必須です。
仁藤:男社会に抗うとなったらそれがすごく大き過ぎて何と闘っているのか見失いかける瞬間もあるけど、そういう時に女性たちがちゃんと知恵を寄せ合って一緒に闘うことが大切ですよね。
でも、繋がることが難しかったり、自分が感じているモヤモヤや絶望感を言葉にするのが難しかったり、共有する人を見つけられなかったりする人はすごく多いと思うんです。
角田:言葉にするのはすごく大事だと思う。それによって問題がはっきりするわけで、一人で抱えているとモヤモヤして訳が分からなくなって、不安が不安を増長していく。人と繋がるというのは、言葉を介しているでしょう。言葉にすることによって自分が見ているものが何かはっきりしてくる。それがはっきりしてくるともっと有効な闘いができる。何についても言語化する力ってとても大事だと私は思っているんです。
仁藤: Colaboが攻撃されるのはその「言語化」をめちゃくちゃしていて、そうするとみんなが「ああ、私の苦しみってこれだったんだ」って目を覚ましちゃうから、それを恐れている男たちの抵抗なんじゃないかなって。
角田:そうだと思いますよ。言語化する力は人が生きていく上でとても大事だと思うんだけど、残念ながら日本ではそういう力を伸ばすような教育してないわけですよ。戦後ずっと、むしろ言語化できない人を育てる教育をやってきた。その行き着くところが今の状況だと思っているの。みんな何が問題かわからなくて右往左往するようなところに追い込まれていて、それって政治する側、ああいう政権にとってはとても有利な状況。
女性初の総理大臣が誕生したと言われているけれど、そのことによって今起き始めている事柄がまさしくそうです。私たちが言葉を使って賢くなる必要があると思う。
仁藤:絶望感がどこから来るのかということを一緒に見つめ、変えるためにどうしていくのかをみんなで話し合い、一緒に行動していく。そのために角田さんのこれまでの闘いから私たちも学びたいなと思っています。角田さんは日本の女性差別の現状についてどう思いますか?
角田:私が弁護士になったのは1975年と言ったでしょう。そのころに比べれば女性弁護士の数も増えてきているし、人々の人権意識も高くなってきたところもあるけど……そうでもないところもある。
私、子どものころから女の子だからって馬鹿にされるのが日常茶飯事だったのね。勉強ができたから学校の先生から馬鹿にされることはなかったんだけど、なんとなく、勉強ができたとしても女ということで周りの人から見下されてたのは子どもながらずっと感じていた。それが一番はっきりしたのは高等学校の時ね。
県立高校は共学にしなければいけないと、そういうことになった時代。共学にしろといっても、先生はもちろん男の先生ばかりですよ。私は福岡県に住んでいたんだけど、形だけの共学にするのがどういうことかというと、女子学生をできるだけ入れない。だけど一人や二人にするわけにいかないから、せいぜい1割、2割ぐらいまでにする。そうは言っても、共通の試験でやっているから普通にやると入ってきちゃうわけ。だから、その学区内の中学に高等学校の先生が行って、「なるべく女子をよこさないでくれ」ってキャンペーンをやって説得するんですね。
戦前は女学校と中学があったでしょう。それが戦後、高等学校になった時にその伝統を引いた高等学校ができる。私の通っていた福岡県立小倉高校というのは元中学でした。もう一つ、小倉西高校というのがあって、これは元女学校なの。それで小倉高校の進学担当の先生が中学に行って、「女子はできるだけ西高にやってくれ」「うちの高校に来させないでくれ」ということをやってたわけね。
私が行っていた中学というのは当時の学芸大学の附属中学だったので、そういう意味でもあまり公的な支配を受けないでいられた中学だった。だから先生は、「女子も小倉高校に行きたければ行け」と言ってくれて、それで何人も入った訳ですよ。ということで、高等学校に入った時からどういうふうに女子が差別されるか身をもって体験していたし、高校の3年間はそれとの闘いだったのね。
仁藤:どうして小倉高校に行きたかったんですか?
角田:私の母が娘を四年制の大学に入れなければいけないと思っていたから。
仁藤:小倉西高校からだと行けないんですか?
角田:小倉西高校に行くと、例えば東大に行くという選択肢が最初からないわけ。全然違うランクの学校。だから、女の世界へ追いやるような進路に誘導されちゃう。小倉高校というのは福岡県内ではいわゆる一流大学への進学率を争っていた高校だったから、母はそれを知っていたと思うんですよ。だから娘を小倉高校に入れなきゃと思っていたんだと思う。
仁藤:高校生活はどうでしたか?
角田:なかなか悲惨なものでしたね。とにかく女子学生がいることをどうやって無視するかという方針だったと思うのね。先生と男子学生にとって、女子が成績がいいというのはとても気に食わないわけ。高校1年の1番最初の中間テストで私、学年で1番になったのね。そうしたらホームルームの時に担任の先生がね、学級の全員に向かって、私ももちろんいる中でこう言うわけ。
「お前らな、ヨシタケ(旧姓)は女だぜ。お前ら女に負けてどうするんだ」「女はそのうちどうせ成績が落ちるんだぞ。お前ら頑張れ。」って。それが高校1年の時の、最初の経験かな。本当はもっとあるんだけど。
例えば入学式の次の日に「1年生は体育館に集まれ」って全校放送があったの。1年生って、私もそうだから行くわけよ。そしたら講堂の入り口で教師が「お前何しに来たんだ。」って言うの。「だって1年生はこっちに来いって言われたから」と言ったら「お前な、1年生と言ったら男子の事。女子もって時は女子もって言うから」って言われた。入学した途端にそうだった。
仁藤:その中で絶望しなかったんですね。
角田:「女は馬鹿だ」って、機会あるごとに表現を変えて言うわけですよ。だから私は、どうやったらこの教師と男子学生に女は馬鹿ではないということを分からせることができるか、どうやったら証明できるかと考えたわけ。そしたらその高等学校では、東大に現役で入った生徒に最高の評価が与えられるってことに気付いて。それで「じゃあ私もそうすればいいわけね」と思った。そんなの勉強すればいいだけだから。勉強して頑張って東大に現役で入ったら文句ないだろうと思った。
仁藤:それで東大に受かったら男たちの目は変わるんですか?
角田:変わらなかったと思うけど。ただ、一つ変わったのは次の学年の女子学生が東大を受け始めたこと。
仁藤:それまでは全然いなかった?
角田:誰もいなかったの。だって、女なんか東大行くものじゃないって思われてたから。東大も女子学生は少なかったけどね。ただ、私が通ってた高等学校では、東大を女子学生の進学の選択肢にしない、させないようにやったもんだから、女子学生も東大を受けようって気にならないわけです。私はそれが癪で、「絶対女でも東大に行けるんだ」って証明しなきゃと思って東大に進んだんです。そんなこと全然難しい話じゃない。ただ勉強すればいいだけだからね。それで、次の学年から女子学生が東大を受験し始めた、それは変化だったと思う。女だって東大に行っていいんだということになったわけ。
私が進学したのは、東大の文学部。なんで文学部にしたかというとね、私のその時の目的は「現役で東京大学に入ること」で、学部はどこでも良かったからなの。どこが1番入りやすいかというと、文学部だった。文学部の勉強内容に興味があったのもあるんだけどね。東大文学部の、一般的に言えば国文科というところの学生だったの。
その成り行きで、中学高校の国語の先生の教員免許を取ったのね。昔は今みたいに3年の時に就活なんてやらないから、4年の夏頃に東京都の教育委員会に行って、「東京都の高等学校の国語の先生になりたいんですけどどうやったらいいんですか?」って聞いた。そしたら窓口のおじさんが「あんたね、女子の国語なんて掃いて捨てるほどいるの」「だからこれ以上、女子なんか採らないよ。まあ、理科や数学なら採るけど」って言われたの。だから手続きもへったくれもないわけ。「女はもういらない」と言われて、そこで何か言い返す知恵もなかったから、しょんぼりして家に帰ったの。
東大学生の就職を斡旋するところがあったんだけど、そういうところに会社から来る求人は、全部男子向けだったの。女子向けや、女子も採るってところがないわけ。だからどっか企業に入りたくても、コネでもない限り入れないわけ。結局、誰かに雇ってくれというのはダメなんだわ、とここで気付いた。自分でライセンスを持って独り立ちできる仕事を探すしかないって。文科系の頭でどうにかなりそうなのが司法試験だけだったから、それを受けたのよ。
仁藤:小倉高校に入ったほかの女子生徒は、卒業後どうしたんですか?
角田:みんな普通の大学に行ってたわね。県立の女子大があったのよ。あるいは九州大学に行ってた。
仁藤:そうすると、女子の就職先はあるんですか?
角田:東京にはないというだけで、九州にはある。でもね、私の友達で、九大の文学部で国文をやった仲のいい友達も、結局、私立の女子校の先生にしかなれなかったわね。県立高校では女子を採らないから。
東大には、当時「婦人問題研究会」というサークルがあって。そこのメンバーに「国際関係論」っていう一番難しいのを専攻してたすごい人がいたんだけどね、英語の先生になりたいからって神奈川県の試験を受けたの。そしたら「男子だったら採る」と言われた。彼女、女性で1番成績が良かったはずなのね。でも1番の女より補欠の男がいいと言われた。県の採用試験でよ。
仁藤:じゃあ学校の先生は男の人ばっかりだったんですか。
角田:公立高校の先生はほとんど男。小倉高校で女の先生って家庭科の先生一人と体育の先生一人だけだった。他は全部男だった。そういう時代よ。
仁藤:当時は弁護士も今より少なかったんですよね。
角田:少なかった。私が弁護士になった年は、女性弁護士は3%。
仁藤:弁護士界に入ってからも、弁護士界の中での女性差別を感じ続けてきたということですか?
角田:いや、それどころか最初から相手にされてなかったから、差別を感じることもなかった。役員だってずっと男だったし、日弁連の会長が女性になったのもやっと今年になってからでしょ。
仁藤:角田さんはそんななか、ずっと切り開いてきたんですね。
角田:弁護士になったばかりの頃は、夫の親がやっていた前橋の法律事務所で雇われ弁護士をしていたんだけど、私の他にあと3人男の弁護士がいたのね。事務員さんもみんな出払ってる時に電話が鳴ったから、私が取るでしょ。そうしたら、かけた人は開口一番「先生おらんかね」というわけ。女の声で出たら、その人が弁護士だなんて思いもしないわけ。で、私もそう言われたら「いや、私も弁護士です」って言えなくてね。「今日は全員出払っています。明日もう一回電話かけてください」って言って切っちゃった。そういうのが当たり前だったの。それでね、そういう事務所に依頼者が来るでしょう。そうしたら私がいるのを見て、「女の弁護士って初めて見た」って、上から下までこうやって見るわけ。珍しい生き物、まるでパンダですよ。
仁藤:そんな環境だから、性暴力の事件やセクハラのようなことも、問題にならないままになってしまうんですね。
角田:もちろんそう。そんなのは当たり前の出来事だからね。強姦だって、同意もへったくれもないわよ。
社会からの攻撃・妨害に屈しないための女性運動の拠点「女性人権センター」を建設します。
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